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 おいものせなかだより3・4月   2023年3月15日(水) [おいものせなか通信]

 遅くなりました(^-^;、おいものせなかだよりができました。
 3月11日(土)にできましたがUPできず、またしつこくウラコラムを少し直したところもあります。土曜日に渡した方、よかったら訂正版を見てください。

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     「春は来る」と走りつづけて、30年                        2023.3.11

 おいものせなかは30年前、「新田リサイクル工房&おいものせなか」で開店した。1989年に隣町東和町で廃品回収の仕事を始めた夫を、私は0歳と2歳の子育てしながら手伝い、ごみ処分場の資源ごみ回収と古着、古道具を県内各地で行商販売もした。3K の仕事に見られがちだが、ちょうどリサイクルという言葉が流行りだした時で、環境問題の講演をよく頼まれたり、ごみがリサイクルで再生されるのが面白かった。

 だが、3年後に空前のリサイクルブームで鉄屑や古紙等の資源価格が暴落し、零細廃品回収業者は廃業の危機に立たされ、今こそ自給自足の生活を始めようと提案。当時私は、途上国の貧困問題の解決には自給自足の暮らしが理想で、それは結婚時の約束だった。小さな畑を開墾して豆腐や納豆を作ったりしていた。ところが夫は、子どもがいるから自給自足は不安だ。リサイクルのノウハウはあるし、人に喜ばれる仕事だから、リサイクルショップをやれば続けられる、それには私の協力が必要だと言う。私はイヤどす!お店は朝から晩まで忙しくて子どもは放ったらかし、自分の実家を見ていて反対したが。結局、私は毎日お掃除オバサンを引き受けるのに、自然食とエコロジーの店も一緒にやるならばと条件を出す。「そんな店、ただでさえ背水の陣なのに足を引っ張るぞ」と反対されつつ花巻に移り、おいものせなかを開店した。


 「不用品はありませんか?」のチラシを新聞折り込みして、まだ使える電化製品、家具、古本、古着が次々持ち込まれた。買取りはせずに、新聞古紙100%のトイレットペーパーをあげて、「このままでは集めた古紙がゴミになる」「集めたら使う!リサイクルへ」と地道に発信。当時リサイクルショップは珍しく、予想外に軌道に乗る。一方隣でコソッと開けてるおいものせなかは開店1周年に「第三世界ショップバザー」をやり、新聞やテレビで紹介され注目を浴びるが、また閑古鳥。

 私の仕事の大半は埃まみれのリサイクルショップの作業だったが、合間にフェアトレードの講演会などのイベントもよくやった。だが5年経ってもヒマな店。お客さんを待っていてもだめだと、エプロン脱いで化粧をし始め、おいもに力を入れようと積極的にイベントにも出店した。岩大生がサークルを作りフェアトレードチョコを広め、フェアトレードが徐々に知られていった。

 10年経って、夫が50歳で「俺、絵描きになる」宣言。おいもをウラで支えてきたリサイクル業を撤退するという。子どもが小中高とこれからお金がかかるという時に?おいもだけでは生活していけないよ(泣)、夫は「何とかなるさ」。清水の舞台から飛び降りた。

 リサイクルを空けた倉庫で10周年記念の「おいものせなかまつり」を開催。うちの商品の生産者が販売、講座、フェアトレードファッションショーなど盛沢山の企画。おまつりは毎年大盛況だったが、15周年でやめた。心身ともに消耗していた。こんなに頑張って働いていても、苦しい。ただ、私が地域でお産の市民運動を立ち上げ、お金にならない活動にかなりの労力を注いできたのも足を引っ張っていたかも。半ウツ状態で、お店もフェアトレードもやめたい、でも生産者の現場に行ってもいないし、最後に現実逃避でネパールの旅に出た。

 ネパリ・バザーロの案内で生産者を訪ね、工房では皆が笑顔で「フェアトレードの仕事があってうれしいです!」と感謝された。私がやめるのは簡単だけど、生産者の生活がかかっている。彼らの家を見た時、不自由なく揃っている自分が苦しいというのが恥ずかしくなった。そういえば、よその家と比べて嘆く子どもたちに、「途上国ではもっと大変な状況で暮らしているんだよ、うちは豊かだ幸せだ」と常々諭していたのに。現場を訪れたことで講演にも力を入れ、市内外の中学や高校でフェアトレードと環境問題の講演を行った。

 実はおいもが花巻でなく盛岡でやっていたら、もっと楽にやれたかもと移転も考えた。冬は寒過ぎるこの建物がつらく、花巻市内に物件を探したこともあった。お客さまの声と、色々な条件が合わず、再びここで頑張ろうと倉庫を改装してカフェをつくり、20周年のおいもまつりをやった。そこで、商品を深く理解してもらおうと、「おいものエコブランチ!」を始めて、料理と生産者のお話は毎回好評。ヒマなカフェだが、食・健康・環境・人権・貧困・政治のテーマでお話会や映画上映会等に活用している。


 これまでの通信を見返すと、頻繁にイベントを企画し、商品や社会の情報を発信し、よく頑張ってきたなと思う。おいもはタダの店じゃないと言ってきた。社会の不公正・不公平は私たちの意識と暮らしから変えていけると通信やブログで政治的な話題も発信してきた、闘う店!(笑)。私が40年前に世の中の矛盾に気づき、海外で活躍したい気持ちもあったが、地域からの変革が大事と、岩手に住んだ。

 まさかこんなに大変だったとは…。土地柄もあるが、選んだ夫が農耕でなく狩猟民族だった。結婚時の約束「家事育児半々!」も破られ、お店もうまく乗せられて一緒に始めたのに、自分だけさっさとイチ抜けたで、結婚詐欺師か?こんな風においもは順風満帆ではなかったが。店の支払いに窮していると、夫は山のキノコやロトで当てて突然大金運んできたり、何でも廃材で修理し大工仕事など何をやらせてもカンが良くて器用貧乏。それがこうじてほんとに神様になった。びんぼう神。離したくてもひっついてくるメンドウな神様だった。

 カフェは、フェアトレードのコーヒー・紅茶から、暮らしにフェアトレードを取り入れてほしいのと、考えがあった。私がもし先に逝ったら、夫は今更外に働きに出ないから、カフェのマスターで好きな薪ストーブをいじりつつ、お店は誰か人を使って任せれば、何とか食べていけるだろうと考えた。でも縄文人には余計なお世話だった。        

 いま貧困や戦争で大変な状況の人たちに比べたら、私の困難は。自分が弱かったのか。でも、おかげで強くなった。人生は思うようにいかないけれど、自分が選んだこと、必要な試練だったのだと、今は前向きに受け止めている。30年、変な苦労話を書いてしまい、ごめんね(*’ω’*)。

 
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