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 おいもだより3月ウラコラム   2020年3月21日(土) [おいものせなか通信]

   だれでもが安心して幸せなお産を

                          2020.3.20
 
 はじまりは、今から35年前。東京のマンションの一室だった。「大阪から面白い人が来るみたい。行かない?」と友人に誘われて行ったその部屋には、妊婦さんが数名。え、何が始まるの?場違いな所に来てしまったなと。まず2本のビデオを見せられた。

 NHKの、「赤ちゃんは土日に産まれない」という大病院の出産のTVドキュメンタリーともうひとつは助産院でのアットホームな出産の様子。対照的なふたつの出産に驚き、結婚もまだなのに、赤ちゃんは病院で産むものと思っていた私は、自分が産む時は助産院がいいなと思った。その時はじめて、産み方はひとつでなく、自分で産む場所や方法を選べることもあるのだと知った。彼女は当時バースコーディネーターの草分け的な人だったのだ。


 数年後、私は岩手の人と結婚して妊娠。岩手山の麓に住み始めて、友人の紹介で盛岡の助産婦さんを見つけて自宅分娩を決めていた。が、「山で猿の子を産むんじゃないよ!」と、母から里帰りを強く言われてしぶしぶ従うものの、すぐに郷里の助産師会を調べた。病院と連携してベテラン助産師5名で運営している母子センターを見つけて、昔乳児院というレトロな建物で超安産。助産婦の熟練の技と産む快感に味をしめて、2人目から岩手でと、助産婦さんを探すのに苦労したが、皆畳の上で産んだ。そこからひとつ下の世代の有機農家さんたちが、私もと後に続いた。

 その一方で、お客さんから、「私はつらいお産だった」という人がいかに多いかを知った。それは難産とかでなく、一人で放っておかれたり、医療者の言葉に傷ついたり、一番心身がデリケートな時に優しくされず物のように扱われたこと。それがずっとトラウマになって、子育てがスムーズに行かなかったりしたと。お産は楽しいなんて言う私は例外だった。なぜ、一生に何度とないお産を幸せな経験にできないのだろうか。

 
 1993年開店した年に産後4ヶ月で朝日新聞岩手版に連載を始めたコラムに、お産のことを初めて書いた。1996年愛知県から自然分娩の吉村正医師を東北で初めてよんで、300人規模の講演会を行う。以後3回岩手によんで、いずれも満員の人気ぶり。何だ、みんな関心はあるのだ。2000年、友人が自宅出産を予定していたが、破水から陣痛が来なくて怖い想いをしたことで、県内のお産情報誌「お産ぽ通信」を友人と3人で発行した。

 同年、男性助産士導入問題が起こり、岩手で反対運動を広げて、「いのちのせんたくきニュース」で発信。岩手日報にこの問題を続けて取り上げてもらう。東京の集会にも参加し、法案が通らないよう全国の仲間と国会議員に陳情・ロビー活動。女性の8割と夫たちも反対している法案だ。熱い運動のおかげで男性助産士の誕生は免れたが、名称変更されて助産師になった。その間、私は仕事よりも運動にエネルギーを使い果たし、幸い夫の理解はあったものの、家計は火の車。燃え尽き症候群で、しばらくはお産のことには関わりたくないと、仕事に専念した。


 そして2004年、県立花巻厚生病院の産科休診問題が。ニュースが新聞に載った日の夜、女性市議3名がうちに駆けつけ、行動を起こそうと。私は医療行政に物申すことの大変さや、加えて夫が仕事をやめてそれどころではないと断ったが、お産といえば私しかいないと説得され、「お産と地域医療を考える会」を皆で立ち上げた。

 行政要望や講演会、学習会など次々と精力的に活動を行った。486名の女性のアンケート調査では、産む場所がないことの不安よりも、困ったことや辛かったことなど行政や医療者への要望が熱く書かれていた。岩手県立大学看護学部の協力でアンケートを集計・分析した産む側の声の報告書を行政と県内各病院に送った。だが何の反応もなく、声が届かないことにがっかりした。


 岩手から始まった産科医不足問題は、2年後には全国的な社会問題になる。男性助産士反対運動後に設立されたNPO法人「お産サポートJAPAN」のシンポジウムで岩手の状況を話し、病院集約化の海外の失敗例も学んだ。医師不足の地域で助産師と医師が連携した政策を国に提言しようと、「お産といのちの全国ネット」を設立して100万人の全国署名を始めることに。

 私は世話人代表になり、まず国会請願の文書づくり。東京らの仲間とメールで悪戦苦闘して書いた4つの請願は、医療者の過酷な労働環境にも配慮された文面で、男性や医師まで共感して署名活動に協力してくれた。この請願内容が全国の地域で実現されれば、お産難民の問題が改善されるだろう。2ヶ月半で衆参30万筆集まった署名用紙を国会に提出、衆参の厚生労働委員会で全会一致で採択されたのだ!毎国会で60も提出される請願の6%しか採択されないという中で画期的な出来事。男性が多い議員にお産の状況の説明をする努力も実った。

 国が認めた私たちの提言が、内閣府から自治体に通達され実施されたらと期待したが、強制力がないので、県政で検討されることもなかった、残念だ。行政は医師不足では、産む側の声よりも医師の方が大事なのだとわかってきた。でも、全国でうねりを起こしたのだ。発行していた「お産ぽ通信」も10年続けて、震災後の放射能特集を最後にした。


 行政も医療者も住民の声をきちんと受け止めて、柔軟な改革ができたらいいのにとつくづく思う。いつも「暖簾に腕押し」は悲しい。言っても無駄だと声を上げなくなる。それでも、今回花巻の産院不に会の相棒の小野寺と行動を起こそうと決めた。医師不足で医師が大病院に集約されて、計画的・管理的なお産が増えるのが心配。妊産婦が病院におまかせでなく、自分のお産に積極的に向き合い、医療者とよく話し合うことで信頼し、納得のいく幸せなお産をしてほしいと、この冊子で伝えたい。

 吉村氏曰く、お産は文化、芸術、哲学に通じる神聖ないのちの営みだから。


 これは私のお産活動の最後の大仕事かな。それにしてもかなりの難産、こんなに大変だとは…。そこが素人の無知・無謀さと、浅はかさよ。

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