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 釜石・大槌町へ、みぞれ雨          2011年4月23日(土)    [東日本大震災]

 先日19日の定休日に、釜石・大槌・田老に行ってきた。遠野を通って。

 私がはじめて遠野に行った時、日本の原風景のようで感動した。いま遠野は自衛隊やボランティアセンターなどの支援活動の拠点になっている。この日は寒く、みぞれまじりの雨で、峠を越えて釜石へ。           

               釜石へ.jpg

 釜石の中心商店街の全部の店の1階が全部浸水して、前の歩道はがれきの山の通りに茫然。
 
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 みんなは早く店や町を復興したいと思っても、そこで再建してもいいのか、危険区域でだめなのか分からず、被災住民も戸惑っているのが現状。

 釜石から30分の大槌へ。大槌町は陸前高田同様、町が壊滅的で、役場職員も幹部級がなくなった。      
 
            大槌.jpg

 大槌の目的は、避難所での人探し。やっと城山体育館避難所にいるわかって、ではせっかくだからと、「お産と地域医療を考える会」も関わる、「被災地妊産婦を花巻に受け入れ事業」のチラシを持って、紹介された山内医師と保険師に会って説明、懇談。

 そして、ずっと気にかけていた、「考える会」の会員で大槌町議の赤崎さんを探しました。いつもの居場所に本人はいなくて、朝出かけて夕方帰るという。役場の人に彼の携帯番号を聞き出そうとしても分からず、諦めるかなと廊下で立ってたら、目の前を涼しい顔で意気揚々とトイレに向かう赤崎さんに似た人が通って、ダメもとで声かけたら、本人でびっくり。偶然というか、不思議な縁。…でもよく考えたら、私携帯もってなかったけど。

 「おー新田さん、よく来てくれたね。さあさあ、僕の新居にどうぞ、案内しますよ」
 鍼灸治療院を30年以上営み、産科不在の大槌町で、女性の出産環境を改善したいと、7年前に新聞で当会の設立を知って連絡をくれた赤崎さんは、きっと町の復興に頑張っているだろうと思っていた。                   
            赤崎さん.jpg

 「あのね、新築した家に7年だけ住んで、全部流されてローンだけ残ったよー」と言って、「夢はね、大槌に日本一の老人ホームを作って、お年寄りも若い人も町に来るようにしたいんだ」。吊るしびなで有名な奥さんは関東の娘さんのもとへやり、単身残って4期目の町議選に賭ける、復興への想いを語りました。69歳、めげずに元気です。

 避難所をから大槌を走っていて、偶然出会ったかの有名な光景。民宿の上に観光船「はまゆり」。手前の朱色の柱は、なんと神社の鳥居だった。
                はまゆり.jpg

 大槌から北の田老町へは、2時間近くも。桜の季節なのに、気温1~2度!雪がふぶいてきた。         
            田老へ.jpg つづく

 きのうから、春夏展示会やっています。日曜日も営業です。どうぞ、いらしてください。

 被災地の様子~陸前高田市 その2        2011年4月16日(土) [東日本大震災]

 福島原発事故が、最悪のレベル7になった。風向きによっては、海流によっても、日本のどこにいても放射能の不安に怯えるような事態なのに、日本人は怒らない、反対しない、どこか平和ボケしている。

 いま、原発の方が、津波で壊滅した町、被災した人々のことよりも多く報道され、忘れ去られていくのもこわい。現地に近く、被災地の復興を願う私にできることは、伝えることかなと感じはじめている。

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 4階まで津波に襲われ全滅の県立高田病院。100人あまりが屋上に避難し、翌日ヘリコプターで救助されるまでの雪が舞う寒い一夜を、紙や棚を燃やして暖をとった。定年直前の事務局長は命をかけて衛星電話を守り、院長は13日からコミュニティセンターで診療を開始し、地域医療の灯を守ろうと自らも被災しながら不眠不休で働く医師、看護師たち。病院前のがれきの山はかなり片づけられていた。

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 友人いわく、1~2年前にできたばかりの体育館(?)だったかな。指定避難所である体育館に避難した100人以上のうち、助かったのは数名だけ・・・。

 友人が前にいた避難所を訪ねた。体育館にざこねかと思ったら、キャンプ用テントが屋内にたくさん張ってあり、プライバシーは守られていた。ご飯作りも掃除も被災した人々で当番を決めて行う、自主・自立の精神の避難所であった。120人くらいの規模だからできるけれど、一番大きい600人もいる避難所では無理だろう。別の避難所ではみそ汁とおかゆだけで、子どもたちが栄養不足という声も。

 その駐車場で声をかけられ、金ヶ崎町のNちゃんにばったり、「なんでいるのー!?」2トントラックを友人に借りて支援物資を届けに来ていた。私もNちゃんも野菜をいっぱい買ってきたのでダブってしまったかな?

           奈津子.jpg
 いつもはおっとりしている彼女が、被災者の友人に「必要なものは何ですか?」と聞いててきぱきとメモする。小さい子どもがいるのに、夫と二人で頑張っているのに感心しきり。この後に自宅避難所に行くというのでついていった。

  徳山さん.jpg  お人形.jpg Tさんは、自宅の周辺14世帯のまとめ役として、市の情報を窓に掲示し、支援物資や食糧を世帯人数分に分けているという。断水は依然続き、陸前高田市はライフラインがひとつでも欠けると、自宅があっても配給している。市街地が壊滅で店もほとんどない。

 アルバムを見せて、作品を見せてくれたTさん。人形作りを教えていたが、お店は流され、「生地があればボランティアさんに作ってあげたいんだけど」と、ちりめんや正絹のハギレがほしいと言っていた。

 陸前高田市は被害が一番大きい市だが、奥さんが行方不明の市長が頑張っていて、いち早く仮設住宅もできたという。避難所も自主的運営ができるかどうかは、トップに立ってリードする人によるという。

 避難所の格差が問題になりはじめ、自宅避難所は大丈夫かとはじめて訪れた今回は、環境のいい避難所の様子を垣間見ただけだった。

 でも、遠くから手探りしていた気持ちが一歩前に踏み出して、また足を運びたい、今度は現地の人ともっと出会いたいなと・・・。思いきって行ってよかった。

 
 

 初めての被災地ー陸前高田市        2011年4月14日(木) [東日本大震災]

 一昨日、陸前高田に行ってきた。その3日前に、ずっと心配していた友人とやっと連絡とれたので。

 彼女は高校の教員で、3月11日は翌日の大学入試を受ける生徒に、午前中に来るようにと言っていたのに、生徒が来たのが午後1時。それから志望動機がーとか面接練習をもう一度とかで、ずるずる延びて「もう帰りなさい」と言っていたところに地震が来た。彼女の家は流された。

 もしその生徒が時間通りに来ていたら、彼女は午後3時には市役所に行く予定だったので、「私はもういなかっただろう」と。本当に生きててよかった。市役所は水没し、職員の1/3~半数は亡くなった。

 電話で、「何か必要なもの、不足しているものはない?」と聞いて、すぐにでも届けたい気持ちだ。
 震災から1ヶ月がたち、物資支援をしながら、被災地に行きたいが何をしていいのか、被災者に迷惑でないのかと遠慮もあって、「軽い気持ちでは行けない」と自分でセーブして、ジレンマを感じていた。

 そんな悩んでた話をしたら、彼女は、「家を流された同僚が盛岡に買物に出た時に、友人に『津波こわかったー』と言ったら、『ああ、そう』という反応ですっごくショックを受けたんだって」

 「見に来てほしい。内陸の人は、それが任務のようなものだと思う。・・・あまり考えすぎずに、まっさらな気持ちで。足が震えるかもしれないよ」

 彼女が案内してくれるというので、やっと意を決し、夫に運転をお願いして、大船渡・陸前高田へ。

              住田.jpg
 沿岸部に向かう峠の山々はぼわーと薄桃色で、穏やかな春の山。これから行くところが正直こわい。

 いよいよ陸前高田に入る・・・。

            アパート.jpg
 市営住宅。3階まで部屋の中が筒抜けで家具も何にもなく、反対側が丸見え。衝撃の大きさに唖然。

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 高校。指定避難場所に一旦逃げたが、直感的にやばいと思い、裏山に避難して助かった。校舎の右側に渡り廊下でつながっていた体育館がぶつかっている。その奥が裏山。校庭はがれきの山だったが、大分片づけられた。

        マイヤ.jpg
 スーパー。3階まで空洞、鉄骨にぼろ布が巻きついて風にはためきぞっとする光景。
屋上非難者は助かった。
もうひとつのスーパーでは、「大きな地震が来たら、車を置いて逃げろ」の店長指示で全員助かった。

        高田風景.jpg
 ここに商店街があり、市役所があり、病院があった町の中心部。今は、あったことさえ信じられないほど、何もない。がれきと海の砂。まるで、爆撃を受けた戦場の跡地のよう・・・。

 つづき
 

 被災地を忘れ去られないように      2011年4月11日(月) [東日本大震災]

 今日であのおそろしい大震災から1ヶ月。3.11を境に変わった。時計の針を元に戻してほしい。

 先日ゆいっこの物資受付中止のことを書いて、せっかく物資を送って下さった皆様にご心配かけました。

 それでは直接必要なところに届けたいと、ネパリ・バザーロ土屋さんのご紹介で、石巻市の方に送りました。石巻市は、人口16万人のうち11万人が被災され、自宅避難者は5万人。岩手もそうですが、避難所と自宅避難所の格差が激しく、自宅避難者は食糧も物資も何もかもないと、自宅被災者のSさんは話していました。

 ネパリ・バザーロのブログで、横浜から3週間続けて必要な支援物資を直接届けた、石巻の様子を伝えています。http://nbazaro.org/wordpress/

 
 昨日東和町で、震災直後から1ヶ月間、被災地へ緊急支援物資を毎日届バイオ・ディーゼル・アドベンチャーの山田周生さんの「現地支援活動報告&フリートーク(私たちにできること)」がありました。

 参加者26名、大体見知った顔ぶれですが、ふだんから有機的な仕事や生活をしている人たちは、それぞれの支援活動の中で、これからどのように支援したら…模索しているようでした。

 印象に残った言葉が、「被災者が一番怖いのは忘れ去られること」
 大船渡が実家の方が言葉を詰まらせて言いました。
 「復興は必ずできるのはわかるが、被災者は両脇を抱えてもらわないと立ち上がれない」


 今は緊急支援ですぐに物資も義援金も集まるけれど…。だんだんに忘れ去られてしまわないように、復興しようという気持ちを持ち続けるために、・・・どうすればいいのだろう。


 面白くタメになる?映画とアニメ          2011年4月10日(日) [東日本大震災]

 昨日、ブログを見た関西の友人から、「ここまでひどかったなんて!」と、興奮して電話があった。
 「どうしよう!どうしたらいい?」と、いつもは元気に地域で活動している彼女が動揺し、憤慨している。

 問題は、国は、本当のことを知らせない、都合の悪い情報は排除する、国民の生活よりも経済が優先する、国民があまり賢くなってもらっては困る、ということ。かなしいけれど、それが現実。
 
 つたない頭と感覚で、ふだん感じていることを伝えた。

 新聞やテレビの情報だけをうのみにせず、そこでは決して報道されない、モラルあるジャーナリストや学者たちの真の情報(一部の週刊誌やネットなど)で大事だと思うことを、まわりに伝えること。

 「いやだ、おかしい」と思う政策には、「いやだけど、しかたない」でなく、「NO!」と反対の意志表明すること。それは、原発だけでなく、福祉や環境や消費税などすべてにおいて。

 今日も東京や青森で反原発のデモや集会が行われているが全く報道されない。

 ロイターのネット署名でもいい、世論を巻き起こすことも必要。
 
 無関心はYESということ。一人一人の意識と行動が世の中を変えていけると思う。

 
 とてもわかりやすい映画(キャストがなかなかすごい)と、京大助教授の小出裕章氏の講義と
それに基づいたアニメを見つけた。それぞれ10分くらい。ぜひ、見てみて。

 「和順庭の四季おりおり 4/7」http://wajuntei.dtiblog.com/

 

 自由報道協会の「原発報道」           2011年4月9日(土) [東日本大震災]

 おととい夜のすごい揺れの地震で停電して、きのうは夕方まで電気が来ませんでした。
 電話もネットも使えず、落ちた商品を片づけて、静かにいつも通り営業していました。

 先日、個人的な感情と意見で原発のことを書きました。お店のブログなのに・・・。

 西日本へ、海外へ逃げる方が安全かもしれないけど、私はここを離れないから、
 なるべく最悪の方に考えたくないと思う気持ちがありました。


 でも、認識が甘かったようだ。マスコミで報道されない事実を知ったほうがいい。

  「日々坦々」http://etc8.blog83.fc2.com/blog-entry-966.html

  長いけれど、わりあい読みやすい。悲しいけど、ひどい国だなと思う。

  ↓ こちらは、広瀬隆さんのインタビューに注目。ここ、人気の政治ブログにリンクしている。

  「カナダ de 日本語」http://minnie111.blog40.fc2.com/

 マスコミに出ない情報だけど、それを信じるかどうかは・・・自分で考えてください。

  
 こんな時に、統一地方選。

 東京都知事に、「津波は天罰」発言、これまでもさんざん差別発言してきたおじさんが有力だとか。
 あの人はもういい。東京都民よ、しっかり選べ。若者よ、選挙に行けー。


 

 今こそ脱原発へ転換を               2011年4月6日(水) [東日本大震災]

 今日は、一応おいものせなかの開店記念日。満18年。特別なことはしないけど、今年は特に静か。お祝いに、フェルトで手作りの「よつばの天使」をいただいた。「いいことありますように」と添えられて。
            よつば天使.jpg
 

 「なんという悲しい時代を迎えたのでしょう」ではじまる、チェルノブイリ原発事故の1年後の1987年に書かれた長い手紙「まだ、まにあうのなら」。
 
 一昨日の「高濃度放射能を海に放出」にショックで、すでに海にも大気にも漏れているとわかっていても、政府が発表したという事の重大さに、いま日本に起きている現実だと上の言葉を何度も思い返した。

 3月下旬に、福島の海岸の遺体が近寄ることもできないほど高濃度放射能汚染されて検視もできず、火葬は空気中に、土葬は土に放射能が放出されるから仕方なく放置されていると新聞で見て絶句。

 そこまで汚染されて、漁業は?農産物は?生産者はどうやって生きていくの、本当にかわいそうだ。

 なんで、ここまで事態をひどくしてしまったのか!事故後すぐフランスやアメリカの緊急支援の申し出がありながら、断ったという菅首相と東京電力。また、長年原発の危険性を訴えてきた広瀬隆氏の「すぐに石棺で固める」という緊急処置は有効ではなかったのか。一体何が阻んだのか、疑問が残る。

 「地震大国日本に原発はいらない」とその危険性を知る人々は訴えてきたのに、今回の地震の規模を想定外と言って済む話ではない。海外から真実を話せと追及されながら、安全を繰り返す政府の対応のまずさと遅さがもたらした被害はあまりにも大きい。香港の日本食レストランが1000店つぶれると聞いた。これからどんどん影響していって、仕事を失い、生活していけない人たちが増えると思うとやりきれない。

 なのに、3/26にあったドイツ4都市で25万人という大規模な反原発デモが、日本でも起きないのが不思議。今はまだ被害のさなかで余裕もないが、おとなしい、怒らない日本人。ただ、反対意見も言えない風潮になっているとしたら、こわい。

 80年代後半に、「まだ、まにあうのなら」が50万部売れて全国に反原発運動を巻き起こした時、私は9か月の息子を抱えて東京・日比谷公園の集会や青森の六ケ所村核燃サイクル(原発よりももっと危険!)反対集会に参加したが、いわゆるふつうのお母さんや若者が、「原発いらない!いのちが大事!」と鳴り物持ってデモした。

 当時、釜石の製鉄所の坑道に低レベル放射性廃棄物処理の計画が浮上した。幸い白紙になったが、もしできてたらと思うと、この地震と津波で、、、ぞっとする。


 私たちが支援したい沿岸の被災地の復興は、漁業の復興でもある。また、おいしい三陸の魚やわかめや牡蠣が食べたい。でも、海が放射能汚染されたら…。本当に複雑な気持ちで、すごく悔しい。

 ただ、原子力政策を進めてきた自民党に民主党、そういう政治家を選んで原発を容認してきたのは、大多数の国民である。つい最近、原発推進予算1080億円が通ったというのは本当だろうか。そして、学校でも原発推進の教育がされていたなんて。下記、友人からのメールです。

・・・・・・・・・・・
 かつて「教育」が戦争に加担してきたのと同じように、「教育」が原発推進に加担してきたことは否定できないのではないかと思えてなりません。     
 ご承知のように「エネルギー教育」という名で巧妙なそして圧倒的量の「原発推進」感化情報が教育現場にずっと流されてきました。掲示物や無料DVD、修学旅行の見学先、そして授業プランや資料を提供するインターネットサイト等です。今、これらのサイトはどんどん削除されています。次のサイトも消される前にぜひ見て下さい。http://www.fepc.or.jp/education/index.html
・・・・・・・・・・・

 いま、原発に依存してきたエネルギー政策を、また、考え方や生活のあり方を大転換する時に来ているとあちこちで聞く。なのに、ここまで多大な犠牲を払っても学ばない、推進派のエライ人々が今日もわがもの顔でテレビで発言する。この国の将来が…不安。いまこそ真剣に、何が大事なのかを考え、見直すべき時ではないか。

 

 ・「原発がどういうものか知ってほしい」 http://www.iam-t.jp/HIRAI/index.html#about

 ・武田邦彦の原発緊急情報 http://takedanet.com/

 ・植草一秀「知られざる真実」 http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/

 ・和順庭の四季おりおり http://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-1238.html

 ・R-DAN 市民放射線測定数値マッピング http://maps.google.com/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&vps=1&jsv=323a&oe=UTF8&msa=0&msid=211033185050990553628.00049ea29c8b4fa869aa4

 ・ロイターのオンライン世論調査に投票を! ロイター・原発・署名でも検索できます   http://jp.reuters.com/news/globalcoverage/japanquake

 ・88年頃、忌野清志郎の発売禁止ソング・サマータイムブルース「日本の原子力発電は安全です♪」
動画http://www.youtube.com/watch?v=_XU0Vv7on7g&feature=player_embedded



 地域でお金をまわすこと             2011年4月2日(土) [東日本大震災]

 きのう、「ゆいっこ」に持っていった支援物資が受付中止でやむをえず持ち帰りました。え~突然の中止!避難所でも受取り拒否されたというのですが、、本当に小さなところ、必要なところに届いているのか…。また受付再開もあるし、何らかの形で届けますので、今はちょっと待っててくださいね。
 ゆいっこ倉庫の様子は、砂時計4/2に詳しく。http://nikkosunadokei.cocolog-nifty.com/blog/

 先日岩手に来られたネパリ・バザーロの春夏カタログが今日刷り上がり、代表の土屋春代さんの東日本大震災の支援を決めたお手紙が全国の通販会員に同封されます。一足早くブログで公開されたので、こちらをご覧ください。→http://www.verda.bz/?pid=30524278

 釜石、花巻(経由)、石巻の3ヶ所に絞り、物資よりも義援金寄付に力を入れています。先日の花巻の「ゆいっこ」を一緒に訪ねて、支援方法を模索して話した後に、土屋さんはきっぱり言われました。

 「やっぱり、物よりもお金がいいわね。もし必要なものがあれば、横浜から物を送るより、お金を送ってこちらで買ってもらった方が、お店にとってもいいし、岩手の経済が活性化するから」

 岩手はいい温泉がたくさんあるのに、観光・宿泊施設は観光客が激減。商売も1、2月の冬の厳しさからやっと3月から頑張ろうというところにこの震災で、全体的に消費も沈滞ムードでどこも大変です。

 「買い控えはいいとは思わないわ。こういう時だからこそ、皆が元気になるように、お金を回していかなきゃ」と、今回ネパリも注文が激減して大変なときに、自分のところの商品を被災地支援にたくさん持参し、帰りは岩手・宮城のものをいっぱい買って帰るつもりで来られました。
 
 その姿勢、20年間ネパールの人々を幾多の困難をも乗り越えて支援してきた強さと優しさ、ぶれない考えはさすがです。  ・・・皆さん、落ち着いたら、東北のものを買って、温泉に来てくださいね。

  震災後、うちのブログはお店よりも支援や原発のことばかりで(店は)大丈夫かいな~と思いますが、関東の友人が、「おいものカタログを送って。友だちにも回して、注文するからね」とか、「やっとガソリンが入ったので、こんな時だけど、今日はいっぱい買物をするつもりで来ました!」…ほんとに有難い。

 いまだに続く余震、被災地のつらい声や様子を見聞きして、自分の非力さを感じたり、正直どこまで支援できるのかと不安になったりもします。でも、一人じゃない、応援し協力し合える仲間がいるから、ダイジョウブ!と言い聞かせて前向きに考えます。


 追記:今日の日曜日は中で仕事をしながら、のんびり開けます。ご来店の方は呼鈴を押してください。
     ただ、用足しでちょこっと不在にするかもしれず、遠方の方はご確認ください。(4/3)

 ネパリ・バザーロが被災地支援に        2011年3月31日(木) [東日本大震災]

 ブログはその日あったことなどを書くのでしょうが、私はのろくて数日寝かせてます、ごめんなさいね。

 先週末に横浜のフェアトレード団体ネパリ・バザーロの代表、副代表とスタッフが岩手に来ました。震災被災地の釜石での炊き出しと支援のことを話し合うために、支援物資をめいっぱい!車に積んで。

 雪がちらつく寒い中おいもに到着し、私へのスタッフの温かい激励の寄せ書きに、いたく感激。(>_<)
 
 代表の土屋さんは、私がブログで紹介した「結いっこ」の理念に共感、顔が見える支援を行いたいと「結いっこ」で事務局長の増子さんと情報交換し、支援を話し合いました。

           ネパリゆいっこ.jpg

 ネパリ・バザーロは20年間ネパールの貧困で苦しむ人々の生活の自立を支援してきました。福祉作業所にクッキー作りなど、国内の社会的に弱い立場の人々の収入向上にも取り組んでいます。

 スタッフの一人が釜石出身という縁もあり、すぐ支援活動に動きました。今回は釜石の避難所2か所でベジタブルカレーと豚汁、おもちなどの炊き出しと、たくさんのネパリの手編みのセーターやくつした、レッグウォーマーなどの温かい支援物資を直接届けました。その後は仙台でパレスチナ・オリーブの皆川さんに会う予定です。パレスチナ・オリーブのブログhttp://himar-diary.jugem.jp/

            ネパリ・プレゼント.jpg 
 ネパリの紅茶・コーヒー・クッキーセットを200~300個も!ひとつひとつに手書きのメッセージつけて。

 ネパリの東北支援の詳しくは、ネパリのブログhttp://nbazaro.org/wordpress/で、3/22の支援物資の準備段階から読んでみて下さい。

 ゆいっこで聞いた現地の状況は、物資のニーズは日に日に変わり、また避難所格差が出ているとのこと。たとえば、大きな避難所は物資が行き渡っているが、個人宅の避難所は1個のパンを7人で分けている所もある。家が残っても食糧がなく、避難所にもらいに行ってももらえない。被災者の複雑な感情の問題もあるようでした。

 一方、土屋さんの話では、関東では原発・放射能の報道ばかりだそうです。関西や海外に避難する人もいれば、放射能汚染が怖くて野菜や牛乳が売れない、買わないという現実。では、逃げれない人、福島・関東の農家・酪農家の生活はどうしたらいいのでしょうか。みんながふだんから原発に関心をもち、NOと言ってきたらよかったのに…。今回の震災で考えさせられ、気づかされたことも多いと思います。


 横浜と長崎のお母さんたちから、またたくさんの支援物資が届きました。温かい支援の気持ちがいっぱい詰まっています。本当に有難うございました。

 また、今日栃木の日光から富岡さん(元記者・詩人)が、自分のブログで友人たちによびかけて集まった支援物資を乗用車に積んで、ゆいっこに届けにきました。「写真とって、おいものブログにのせて」と言われて、慌ててパシャ。砂時計http://nikkosunadokei.cocolog-nifty.com/blog/
とみおか.jpg 日光.jpg

 明日から4月1日。ああ春だという陽ざしがさしても、どこか沈んでいます。みんなでがんばりましょう。


 
 

 遠く、長崎から届いた気持ち          2011年3月28日(月) [東日本大震災]

 また物資の話になりますが、長崎から18箱!の荷物が届きました。「緊急支援物資」と貼られた段ボール箱には、ベビー服や子どもの服、おもちゃなどがきれいに整理されてぎっしり入っていました。

 震災後に連絡をくれたのが、お産の全国署名活動http://www7b.biglobe.ne.jp/~osantoinochi/で知り合った長崎市の松井さん。「産(むす)びのたね」という、幸せなお産と子育てを考える会の代表です。
 「長崎のお母さんたちも、被災された小さな子どもを持つお母さんたちの気持ちによりそって応援したいので、子ども服や絵本などを集めています」

 その松井さんから、先日「助産院の助産婦さんが集まった服などを、18箱送ったそうです!」

        長崎物資.jpg

 冬服は少なく、春夏の子ども服やベビーの肌着がたくさん。とてもきれいな状態です。

 発送元は長崎市のさくらの里助産院で、助産婦の野間田さんが助産院で出産したお母さん30人位に声かけしたら、ツイッタ-であっという間に広まって、遠くからも届いて、野間田さんもびっくり。
 宅急便の送料だけでもかなりですよね。野真田さんが負担されたようですが、「いえ大丈夫ですよ」

 「地震の被害を見て、何か支援したい、協力できないかとお母さんたちがみな心を痛めていたんです。赤ちゃんがいるお母さんが赤ちゃんのものを提供してくれて。長崎のお父さん、お母さんたちの気持ちを被災地に届けたかったんですよ。長崎は水害も経験しているので、県では被災された方の受け入れも準備しているようですよ」と野真田さん。

 松井さん、「実はうちの会も今日2箱おもちゃとか送ったんですよ」。ゆいっこのブログで必要な物資を随時確認しているとか。
 「ただ、こちらでは被災地の情報が少なくて、意外と周りのお母さんたちの関心がないんです…」


 岩手では毎日、新聞で被災地の現状が報道されます。離れていると想像力だけでは限界があり、他の県外仲間からも「何でもいいから情報を発信して。できる協力はしたい」という有難い声もあります。せっかく皆さんがのぞいてくれるこのブログでもっと伝えられること、考えますね。

 長崎から支援の気持ちを届けてくれたお母さん、お父さんたち、本当に有難うございました。
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